小堀馨子のブログ

古代ローマ宗教研究者でロンドン大学にて博士論文執筆中の小堀馨子のブログです。
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ニュース「ダ・ヴィンチ・コード盗作?」について
「ダ・ヴィンチ・コードは盗作」と提訴=出版差し止めの可能性も

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060228-00000000-jij-ent

【ロンドン27日】世界的ベストセラーとなった米作家ダン・ブラウン氏の小説「ダ・ヴィンチ・コード」は、自分たちの著書からアイディアを盗用しているとして、歴史学者2人がロンドンの裁判所に提訴し、公判が27日に始まった。
 訴えたのは、ヘンリー・リンカーン氏とともに1982年に「聖なる血と聖杯」を著したマイケル・ベイジェント、リチャード・リーの両氏。2人は「ダ・ヴィンチ・コード」の多くの部分は、「聖なる血と聖杯」を参考に書かれていると主張し、発行元の出版社ランダムハウスを訴えた。
(以下略)
とのことだが、さもありなんと思った。

このマイケル・ベイジェント、及び、リチャード・リーの両氏は、彼らが申し立てた「聖なる血と聖杯」のみならず、「死海文書の謎」においても、「イエスは十字架上で死なずに生き延びて結婚した」系の主張を繰り返し陳べている、いわば聖書学界では曰くつきの学者である。自分は「死海文書の謎」はかつて読んだが、「聖なる血と聖杯」(邦題「レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説」)も「ダ・ヴィンチ・コード」もまだ読んでいないから、ここで彼らの訴訟の是非を直接的に論じる資格はない。

Bagent


The Original Jesusしかし、この「ダ・ヴィンチ・コード」や「死海文書の謎」などに留まらず、「イエスは十字架上で死なずに生き延びた」や「イエスはマグダラのマリアと結婚していた」という説は、何も新奇に二十一世紀に出現したものではない。この説は十八世紀以来の伝統ある「トンデモ」学説である。この脈々たる「トンデモ」学説の系譜に関しては、「イエスは仏教徒だった?」所収の拙解題論文に記してあるので、詳しくはそちらを参照して頂きたい。とにかくこの「トンデモ」学説の伝統の根強いことと言えば、ドイツ啓蒙主義の時代に萌芽して、ロマン主義の時代に爛漫と咲き誇り、現代になお繰り返してこうした結実を絶えず生み出しているのであるから、いかにも敬服に値する力強さを感じないだろうか。


この手の本で、日本でも翻訳されて、(翻訳に対する)賞まで貰ってしまった著作としては、ご記憶の方も多いだろうが、「イエスのミステリー」がある。この本の著者も、「イエスは十字架刑を生き延びてマグダラのマリアと結婚した」という古くて新しい「トンデモ」説文脈に立脚しており、そういった意味で新奇な点はなかった。(ヨハネ福音書の年代に関して、新しい説を提示していたが、それとて聖書学の立場からは難なく論破されるものであった。)


勿論、これらの「トンデモ」学説が、「我こそは教会が隠蔽してきた真実の歴史を解き明かすものなり」と鼻息も荒く語る背景には、皮肉にもプロテスタントの聖書回帰運動に端を発し、啓蒙主義以降に発達した聖書学が、次々と外典・偽典の存在を明らかにし、学問的に解明していった成果があったと言える。この成果と、既存の教会制度及び教会の権威に疑問を抱く知識人達のニーズとがマッチして、それが学問の範囲内では、守られていた資料の正当性と時代性とが無視され、ある種の言説を鼓吹する材料として利用されてしまう結果になったのだ。

なお、「イエスがマグダラのマリアと結婚していた」ということを「におわせる」ような素材自体は、実際に存在する。例えば、日本でも翻訳が出ている「ナグ・ハマディ文書」にもこの手の言説は散見される。それが何故に異端とされているか考えたい立場(教会の側に多い)と、それが異端とされてきたのは権威による弾圧があったからであるという立場(反権威的アカデミズム知識人の側に多い)との抗争は、永遠に終わることのないいたちごっこであろう。そして、今後も上記のような「ダ・ヴィンチ・コード」や「イエスのミステリー」と言った系統の言説は、この抗争の中で似たようなものが絶えず新たに生まれては消えてゆくことだろう。

ちなみに、「ダ・ヴィンチ・コード」に関しては、近々映画化されることになっており、その映画配給会社が専門家による「反論サイト」を設立したという。

http://patiotalk.jp/archives/03_media/The_Da_Vinci_Challenge.php

映画配給会社のColumbia Picturesでは、映画「ダ・ヴィンチ・コード」が5月19日にアメリカで公開されれば、世界中のカトリック教会や敬虔なクリスチャンから激しい批判の嵐が巻き起こることを想定している。そこで同社は、否定的な反応を和らげるための試みとして、著名なキリスト教指導者が「ダ・ヴィンチ・コード」への疑問などを書いたエッセイを掲載する特別サイトを主催することとした。

この特別サイト「TheDavinciChallenge.com」は映画公開の数週間前に立ち上げられ、40人以上のキリスト教徒作家や学者、福音主義団体の指導者などによるエッセイが掲載される予定だ。「ダ・ヴィンチ・コード」はローマ・カトリック教会はイエス・キリストの神性について、2000年にわたって共同謀議を図っているというテーマで書かれており、キリスト教会ではこのことが、キリスト教徒の信仰心を弱めるのではないかと懸念している。

自分の所属教会の主任牧師も「ダ・ヴィンチ・コード」に反論する小冊子をものしていたと記憶するが、自分はまだ入手していない。このサイトに彼も稿を寄せるのか定かではないが、このような動きは見守って行く価値があると思う。


上記のような観点から眺めた時に、今回の訴訟の報は、自分にとっては(表現は悪いが)「目くそ鼻くそを嗤う」といった感を引き起こした。しかし同時に、これは古代に関する学問が、一部少数の古代史愛好家の娯楽の域内に留まらず、現代世界に商業性を通じて、強いメッセージを発してしまう、一事例として興味深く思えるので、一宗教研究者として、この場に取り上げたかったのである。

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| 時事論評 | 20:37 | comments(6) | trackbacks(1)



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コメント
トンデモ学説と云ふ言葉が頻出する以上学術的見地から書かれたものではなささうですが、
これらいずれもイエスが実在してゐたと云ふ『超』トンデモ学説に基づくものですから、キリスト教的見地から云ふと妥当なのでは。
| あがるま | 2006/03/03 7:41 PM |
>あがるまさん
コメントありがとうございました。

「学術的見地」とは、対象が何であれ、それをどのように切ってゆくかという手続きが正しいかどうかを問うてゆく立場です。だから、その手続きの途中に誤りがあるのに、そこに誤りがないかのようなふりをして提出される、しかもその間違いを指摘されてもそれを誤りと認めず、またその指摘を取り入れて自説を訂正補強することもせず、同じ主張を繰り返し続けて、学問の発展に何ら寄与しない状況を作り出すときに、「トンデモ」学説と言われます。即ち、最初から「これはお遊びだよ、学問ではないよ」という形で提出されていれば、問題ないと思いますが、「まっとうな学問である」という触れ込みで提出されるとき、「トンデモ学説」という批判を受けます。

ただ、その手続きに関しては、学問は検証することができますが、その対象が正しいかどうか、という判断になってくると、これは各人の信念の部分に踏み込んでくるため、各人・各集団の信念自体が正しいかどうかは、学問では検証できません。(世の流れとか、それが後世に生き残ったか、という形で、最終的に人が判断することにはなると思いますが、それも時代の趨勢に影響される部分が大きいので、不変の絶対的評価というものはありえないと思います。)

こうしてみると、「イエスが実在してゐたと云ふ『超』トンデモ学説」とおっしゃるお言葉は、あがるまさんの信念の表明であって、学問的に証明された事実ではございません。また、キリスト教も一つの信仰体系である以上、これも「信念の表明」でしかございません。そして二つの信念が違う場合、対話は可能であっても、それを客観的に検証することは、人間が主観的な存在である以上、完璧な意味では不可能です。

ですのであがるまさんの信念をここで表明して下さったことは素晴らしいことだと存じますが、信念の表明と、学問的手続きの検証との間には、上述のように大きな溝がございます。ですので、「これらいずれもイエスが実在してゐたと云ふ『超』トンデモ学説に基づくものですから、キリスト教的見地から云ふと妥当なのでは」という論理展開には少々論理の飛躍があるかと思われます。つまり、キリスト教という一信念体系が、「イエスが実在してゐたと云ふ『超』トンデモ学説」というあがるまさんの信念を受け入れていない以上、“それゆえに両者は同じ穴のむじなである”というあがるまさんの結論をも受け入れないと思います。従って、「キリスト教的見地からして妥当では」というあがるまさんのご推測も、あがるまさんのお言葉というレベルに留まってしまい、残念ながら学問的立場から、万人の承認を得るものにはならないと思います。

ちょっと、長くなりましたが、これを読まれた他の読者の方の無用な誤解を引き起こさぬかという老婆心から、書かせて頂きました。

もしもこれ以上ご質問がございましたら、下記のコメント投稿者欄の私の名前の部分からメールが送信できますので、直接メール頂ければ幸いです。
| 馨子 | 2006/03/03 8:46 PM |
あとは個人的な質問をと云ふことですが、MSメイラー使用してゐないので、断片的な弁解をお許し下さい。

『超』transcendental学説と云ふのは、学説の内部には存在し得ない、学説を超越したドグマだと云ふことで、「トンデモ」と云ふのは理性に反したと云ふ意味です。

誰も明白に誤りのあることを書くつもりはないので、解釈学的循環は別にしても、有り得る誤りを指摘するのが「学術的」と云ふことでせう。既にその検証がされてゐるとは聞きませんが。

信仰(特にキリスト教は不合理を信仰することですから)と一般の合理的常識を同様に信念として対峙させるのは無理があると思ひます。

ギリシア・ローマの宗教研究が学術的に進んだのは、それを誰も信じられないからこそ、だと思ふのですが。
| あがるま | 2006/03/03 10:23 PM |
>あがるまさん

> 信仰(特にキリスト教は不合理を信仰することですから)と一般の合理的常識を同様に信念として対峙させるのは無理があると思ひます。

「一般の合理的常識」とあがるまさんがおっしゃるものも、近代の産物という意味では、相対的な一信念体系に過ぎないとうのは今やよく知られている問題点ではないのでしょうか。勿論、多くの方が意識的と無意識的とにかかわらず、その信念体系の中で生きておられるというのはあると思いますが。

その「一般常識」をも“学問の上では”相対化して検証して考える必要があると思います。

> ギリシア・ローマの宗教研究が学術的に進んだのは、それを誰も信じられないからこそ、だと思ふのですが。

これはおっしゃるとおりです。

というか、「信じる」というより「実践していた」人たちが千数百年前に死に絶えてしまったから、近現代に実践者がいないゆえに、よいように近代主義の立場から思い込みによる位置づけがなされ、しかし同時に実践者がいないゆえに、学問的検証も(他の実践者・信仰者が現存する宗教と比べて)極度の政治性を持たずにできたのだと思います。(尤も、古代の学問研究も、完全な政治性抜きになされているとは、現代でも到底思えない状況はございますが。)
| 馨子 | 2006/03/04 1:55 AM |
云ふまでもありませんが、哲学(学問一般)と信仰の相違は古代からの問題で、啓示宗教が理性に反すると云ふのは、近代の偏見ではありません。

凡てを相対化出来る立場はない、と云ふのが常識。つまり、常識はそれ自身の否定も含んでゐます。
小堀さんも「今や何よりも知られてゐる問題点」だと云ふ常識から発言されてゐることですし。

イエスの歴史的実在が、同一律とか矛盾律と同じレヴェルの(証明不可能だが)明証性を持つてゐるとは小堀さんも思はれないでせう。
別にイエスを歴史上の存在を認めなくとも、信仰には何の関係もないと思ひます。
寧ろトンデモ理論はイエスを実定的に認めてしまつたから、その彼が如何に人間として生きたかが興味の対象になつたのだと思へますが。
| あがるま | 2006/03/04 7:27 PM |
>あがるまさん
取り込んでおりましたもので、お返事が遅くなって申し訳ございませんでした。

> イエスの歴史的実在が、同一律とか矛盾律と同じレヴェルの(証明不可能だが)明証性を持つてゐるとは小堀さんも思はれないでせう。

私の思いに関して、このような推測でものをおっしゃられても、そう思うか思わないかは本人の信念の問題になって参りますし、この場は私の信念の表明をする場ではございませんので、同意を求められても困ってしまいます。

> 別にイエスを歴史上の存在を認めなくとも、信仰には何の関係もないと思ひます。

これはキリスト教の立場ではない方の見解でしょうね。キリスト教の側はそうは考えていないのが実情です。そういう意味で、あがるまさんのお立場とキリスト教の側の立場とが根本的に違う以上、あがるまさんのご見解をもってして、キリスト教の立場の人たちを納得させることは難しいと思います。これはこの点だけにフォーカスしようとすると、決して相容れない問題になってお互いに一歩も譲れない事態が起こり、対話不能になって参りますので、対話の方向性を考えていらっしゃるのであれば、学問の立場と信念の立場とは区別して同列に取り扱うべきではないと存じます。
| 馨子 | 2006/03/08 10:36 AM |
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ダ・ヴィンチ・コード/ダン・ブラウン
「ダ・ヴィンチ・コード」は、映画では描ききれないであろう豊富な知識と、綿密なプロットに支えられたエンターテイメント小説です。当初は映画を観るつもりでしたが、小説を読んで正解だったと思います。 キリスト教の聖杯伝説に関する記述は、ストーリー展開以上に
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