小堀馨子のブログ

古代ローマ宗教研究者でロンドン大学にて博士論文執筆中の小堀馨子のブログです。
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ルクレティウス徒然 (4月2日)
おてんき

昨日は、エイプリルフール記事をアップしたが、単純にお楽しみ頂けたことを願っている。

最近は、博論の一環で、Lucretius の religio 観を洗っている。

彼は、religio と superstitio との間に区別を設けず、当時の用法でもこれは superstitio を使うのではないか、という文脈でも religio を使っている。つまり、彼は、神々に敬意を払って儀礼を執り行うことは、人間を束縛するものであり、ナンセンスであると考えている。彼はエピクロス派の哲学の礼賛者である。神々は人間に警告を発したりしない、全ては自然現象である、という思想は、西欧現代化された人々にとっては、耳障りのよい思想かもしれない。

しかし、自分は、個人的にはルクレティウスの発想が余り好きではない。研究者だから好き嫌いを言うべきではないのはわかっている。好きも嫌いもなく、冷徹に対象にアプローチして行かねばならない。しかし、このように私的な発言が許されるブログという場でだから言うが、私は彼の思想が好きではない。「好きこそ物の上手なれ」と言うが、好きでないものは、好きなものに比べて、理解の度合いが落ちるのは確かである。尤も、「好き」で思い入れが激しすぎて誤読を犯してしまうのも本末転倒ではあるが、実は結構よくある話でもある。

第一章は、一月には一月下旬までに、二月には二月下旬までに、三月には三月下旬までに書きあがっているはずだった(笑) しかし、四月に入ったが、ようやっとルクレティウスのパートを書き始めたばかりだ。あとはカエサルという難物が待っている。ただ、カエサルは religio に関しては、ルクレティウスほど厄介な思想の持ち主ではないのが救いだ。あとはサルスティウスとネポス、これは数がそんなに多くないからよい。早く、ルクレティウスを料理して、第二節を仕上げ、第三節に移りたいものだ。少なくとも三日以内に第二節を書き上げ、イースター前には第三節のキケロに取り掛かりたいものだ。


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OLDのCD-ROM化 (3月23日)
くもり

OLD(Oxford Latin Dictionary)がCD-ROM化されたとのニュースが
メレアグロスさんの「ラテン語徒然」の記事にあった。


OLD の CD-ROM の詳細
     ↓
http://www.logos.com/products/prepub/details/2229


大変魅力的だ。 しかし、正価で$295、予約価格でも$150は少々お高い。
一応、ペーパー版は手許にあるが、一々重たい辞書を持ち上げる手間が省けるのは魅力的だ。
今を逃せばもう予約価格で買えないのはわかっているが、ここはちと悩みどころである。


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古代ローマの宗教を考える上で参考になるキケロの著作 (3月2日)
おてんき

古代ローマ人が宗教面でどのような行動のモードを持っていたかを考えるのは重要だ。さもないと、十八・九世紀のヨーロッパ人が、「ローマ人には理性的なところと非理性的なところがある」として理解に苦しんだまま、自分達の目線で断罪してしまったのと同じ轍を踏むことになる。

# 勿論、当時のヨーロッパ人理解という観点からは、その勝手な断罪の軌跡を追うのも面白いが。

しかし、古代ローマ人の遺したものを現代の我々が理解するに当たって、彼我の違いをよく見極めて、その距離を計算に入れつつ眺めることは重要になる。それを知った上で、芸術家が、自分の作品として古代ローマをこう描くぞ! 私はカエサル大好きだからカエサルを格好よく描くぞ! と意気込むのは、それはそれで、学術研究ではなく、その人個人の作品である限りにおいて素晴らしいのだが、学術研究はそれとはまた違ってくる。勿論研究者の主観や時代の偏見を決して完全に拭い去ることはできないが、それでも、壁を取り払おうとする努力の方向性は認めてもいいのではないだろうか。

そういう観点から、古代ローマの宗教を研究するとなると、話すことは沢山あり、たった一つのエントリでは決して書ききれるものではない。だから、少しずつぽつりぽつりと、問わず語りのように、気が向いた時に書き散らしてみたい。


そこで、今日取り上げるのは、古代ローマの宗教の研究に役立つキケロの著作だ。

キケロの著作は現存しているものは五十数点あり、演説・書簡・哲学作品・修辞学作品とジャンルも多岐にわたっている。哲学的著作の中では、当時の古代哲学諸派の見解を引用しながら、対話形式によって自分の見解を打ち出しており、興味深い資料だが、これはあくまで、限られた読者層が対象だったと考えられる。一方、法廷演説はキケロが誰を弁護しているかという背景を考えて、かかっているバイヤスを解きつつ読めば、これまた哲学的著作よりは、社会性のある資料だとも言える。

古代ローマの宗教自体の研究に役立つ著作としては、前者では、最近ここで頻繁に取り上げている「卜占について」、それから現代で言う宗教法について述べている「法律について」第二巻、そして「神々の本質について」がある。後者では「我が家について」、「占者回答論」という二つの演説が大層重要である。というのはキケロは自分自身が鳥卜官であり、その鳥卜官としての見識が、演説の中で活用されて、ローマ宗教の特質を考える上で非常に興味深いからである。

この五つの著作に関しては、「神々の本質について」と「法律について」は岩波選集に翻訳があるが、他の三点は翻訳がなかった。「卜占について」は《ラテン語徒然》で最近翻訳が始まっている。そして「我が家について」は、《Arcadissima》で翻訳が完結し、「占者回答論」は翻訳が進行中だ。


「卜占について」
http://litterae.blog8.fc2.com/

「我が家について」
(サイト訳では 「俺の家返して」 )
http://arcadissima.cool.ne.jp/Cicero/CMDPA_jp.htm

「占者回答論」
(サイト訳では 「凶兆は僕のせいじゃない」
http://arcadissima.cool.ne.jp/Cicero/HDPCC_jp.htm


何れも紙媒体ではないウェブ翻訳だが、大意を捉えて、内容を理解するという意味では、学術研究の一里塚となる、意義のある偉業だ。

岩波選集、京都大学西洋古典学叢書と銘打っても、これが決定訳だ、というわけではない。紙の媒体で日本語で訳を提供するチャンスが、うまく商業ベースと噛みあって、形になったという話であり、これからももっともっとよい訳が出てくる可能性は大いにある。それは最新の研究成果を取り入れた、という意味でもあり、その時代の日本語で理解し易いものになっている、という意味でもある。イギリスでも、同じペンギン・ブックスという出版社から時代を違えて二人の人が訳しており、両方とも世間に通用する訳である、という例はある。同じ出版社の中でさえそうなのだから、出版社が違えば全く問題ないだろう。

そういう意味で、この現在進行中の翻訳の展開はとても楽しみである。



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| 研究関連エッセー | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0)



キケロ『卜占論』の反響・・・ (3月1日)
おてんき

キケロ 『卜占論』 (De Divinatione)のタイトルの訳語について、思うところあり、検索していたら、思いがけない嬉しいことがわかった。一昨年の秋に私の指導教授が日本に行って招聘先の大学で連続講演をしたが、それは公開講座だったので、一般の方から学生さんまで広く来て下さっていた。そして、何人かの方が、キケロの『卜占論』に興味を覚えて下さっていたのだ。


● 鏡リュウジの Ryuz-Café (2005年11月9日)
http://kagami.nifty.com/kagamilog/2005/11/post_3b98.html


●クロアシの読書日記: 新しい進路・Cicero”De divinatione”
http://blog.goo.ne.jp/kuroashi/e/d99439d1793f8d8a348850b8285276d8


ついでに、彼の連続講演の内容要旨のURLも貼っておく。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/shiseigaku/ja/gyouji/k051107.htm


古代ローマの宗教という研究テーマに取り付くことになったのは本当に偶然からだった。修士に入った時には、ヘレニズム世界&古代ローマ帝国におけるユダヤ人について研究するつもりだった。ヘブライ語をかじり、ギリシア語に殆ど音を上げ、構想はなかなかまとまらず、修士二年の夏休み、当時の指導教官がぽろっと一言もらした。

 「その当時のローマの宗教ってどんな宗教だったの?」

その問いに自分はさっと答えられなかった。
だから

 「はあ、ちょっと調べてみます。」

とお茶を濁した答えを返したら、追い討ちの一言が来た。

 「両方やるの大変だから、修論ではユダヤ教か古代ローマの宗教かどっちか一つに絞ったら?
  修論書き終わったら、また両方やればいいんだしさ。」

こうして、1994年の八月上旬、私の進路が決まった。
それから四ヶ月で四百字詰め原稿用紙に換算して550枚の修論を書いて提出したが、
そんなとんでもない突貫工事の代償は高くついた。

 「修論を書き終わったらまた両方やればいいんだしさ」

という彼の言葉も空しく、十二年半経っても、まだこのテーマから足を洗えていない。

勿論、一度は全く違う方向に研究テーマを変えようとした。しかし、いつの間にか、また古代ローマの宗教というテーマに自然に引き戻された。そして、日本では、古代ローマ宗教の専門家がいないゆえに、ディテールを独学する状態ではどうしても勉強が進まないので、2000年夏から英国に来ることになり、それから七年が経った。

私の英国での指導教授が2003年と2005年とに日本に呼ばれたのも、上記のかつての私の指導教官が彼を招聘して下さったからだった。そして、彼が蒔いた種が、こうして、色々な方の心の中で、興味をもって頂けるという形で芽を出している。それを知ることができたことが嬉しい。

自分の研究は、アカデミズムの中で職を得るという形で活かすのは難しいかもしれない。しかし、このように興味をもって下さる方のために、私がイギリスで学んで得た知識を何らかの形で還元できたらいいなあ、と、今日はこの上記の二つのブログに接してしみじみと思った。

そのためには、早く博論を書き終えて、人生の次のステップに踏み出さなければ!!



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キケロ『卜占論』の注解書について (2月17日)
おてんき のち くもり

過日の日記キケロ 『卜占論』 (De Divinatione)の邦訳をなさっている
サイトラテン語徒然を紹介した。
そちらで、今日のエントリに、最新の注釈書を入手された感想が記してあった。

http://litterae.blog8.fc2.com/blog-entry-865.html

英語で手に入る注釈書・訳書としては、

Pease, Arthur Stanley ed. (1920) M. Tulli Ciceronis De Divinatione Vols I and II, Latin Texts and Commentaries. New York: Arno Press.

Wardle, David ed. (2006) Cicero on Divination : Book 1, Clarendon Ancient History Series. Oxford: Clarendon Press.

Falconer, William Armistead tr. (1923) Cicero: De Senectute, De Amicitia, De Divinatione, Loeb C. L. Cambridge Mass.: Harvard U.P.; London.

Yonge, C.D. tr. (1997) Marcus Tullius Cicero, The Nature of the Gods and on Divination, (Great Books in Philosophy) Prometheus Books.

の四点が挙げられよう。

この Wardle の注釈書の感想が今日のエントリに述べられていたのだ。

たまたま今日、自分も図書館でこの本を探していた。オンラインカタログには所蔵していると記載してあるのだが、書棚にない。新着図書にもない。なので、一旦は貸し出し中なのであろうと諦めた。しかし、思い切って司書に問い合わせたところ、彼女もあちこちと探してくれた挙句、出版された月から推して、図書館に入りはしたが、まだ整備係の部屋にあって、整備作業中なのではないか、という結論に達した。これはもう注文した方が早いと思い、図書館のネットから早速アマゾンで注文した。

上記のサイトの作者氏は、本を一見した限りでは、対訳になっておらず、註ばかりが充実していて、ラテン語自体に興味のある者にとっては使い辛い、という感想を漏らしておられたが、それはもしかして、私のような生粋のラテン語読みでない、研究背景を重視しているような歴史学&宗教史学畑の者にとっては逆に使い易い注解書だということかもしれないと思い、ちょっと期待している。

ただ、キケロのこの著作を本気で読むとなれば、フランス語やドイツ語やイタリア語の訳や注釈書をも参照せざるを得ないであろうし、なかなか大変な作業だな、と思う。



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| 研究関連エッセー | 07:15 | comments(0) | trackbacks(0)



ラテン語著作の訳出 (1月18日)
くもり強風

今日のロンドンは大変な強風だった。
雨は殆ど降らなかったが、台風並みの風で、stormy という表現がぴったりだった。




先週の日記キケロ 『予兆について』 (De Divinatione)の邦訳がないことを嘆いた。
そうしたら、メレアグロスさんのサイトラテン語徒然で上記の著作の邦訳が始まった。
そのうちに、この著作が篤志家の私訳とはいえ、日本語で読める日も近いだろう。
他にも、オンライン読書会などで著作を訳している試みはある。

ただ、どうしても学問の側にいる人間としては、これがきちんとした形に校訂されて出版されてほしいと思ってしまう。これは自分が古典学者ではなく、歴史学者という、既に公刊された史料を用いて歴史の流れを考えて行く立場の人間だからかもしれない。つまり、史料の公刊、という意味で、公的に史料化されてほしいと思ってしまうのである。おそらく自分が古典学者だったら、自分が訳して業績化しよう、という気持ちになるであろう。そう思わない点で、自分は古典学の学徒ではあっても、古典学者ではないのだろう。

どうか、こういう篤志の方々の偉業が、何らかの形で日の目を見るような時が来ますように。



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| 研究関連エッセー | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0)



Annales Maximi 論文 (1月16日)
 
くもり 一時 あめ

週末から、下記の本を読んでいる。

Bruce W. Frier (著) "Libri Annales Pontificum Maximorum: The Origins of the Annalistic Tradition" (Papers and Monographs of the American Academy in Rome, Vol 27)

“Annales Maximi”について、論文中で触れたら、上記の文献を読んでいないと教授に指摘され、先週になってやっと古典学研究所図書館から借りてきたのだ。70年代に出た学位論文を改稿して1999年に出版されたものだが、さすが、教授が読んでおけと言うだけあって、大層意義深い本である。大抵人様の学位論文なんて、必要箇所を引用するためにだけひっくり返して、あとは序論を読んでお終いだが、これは他の仕事をちょっと脇において、全部読みたい衝動に駆られている。こんなに面白いのは、ただ著者の筆が達者だからというよりは、今、自分が興味を持っていることのつぼにどんぴしゃりと嵌ったからだとは言えそうだが。

つまり、古代ローマの初期の歴史の「書き手」あるいは、初期の頃の歴史の帝政期初期から中期における「受容史」の問題に関わっているからだ。帝政期初期というより、共和政末期に、既に「古典研究趣味(antiquarianism)」が盛んになる。キケロやウァッロはこの流れの人だ。そして、アウグストゥス時代になると、世情が安定して、古典研究趣味が一斉に花咲く。Verrius Flaccus という博学の古代研究家が出るのもアウグストゥス時代である。その頃には、Annales Maximi 自体が、80巻にわたる刊本として公刊されていたとも Verrius は記している。

(ちなみに言うまでもないが、Annales Maximi とは、大神祇官(Pontifex Maximus)が毎年記録をつけていた年代記で、共和政期には白い板に書き写して王宮(Regia)の外に掲示された。グラックス兄弟の時代まではこの伝統が保たれていたが、キケロの時代には既に廃れていた。それが始まったのは遅くとも前400年で、場合によっては共和政期初期にまで遡りうると考えられている。)

このあたりの、伝承がどう記述され、どのように受容されてゆくか、ということを跡付けてゆく作業は、
人様の学位論文ながら、読んでいるだけで実にわくわくする。

ああ、でも、博論に戻らねば。
できるなら、こういう本を読んでぱっと元の史料にアプローチできるような地で、
一生研究を続けられたら幸せなんだけど、今現在の身分では望むべくもない夢。



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| 研究関連エッセー | 06:23 | comments(0) | trackbacks(0)



論文近況 (1月10日)
あめ のち くもり

ようやっと今週から勉強体制になった。
今やっているのは、前回教授に指摘を受けた、一番目の章の第一節の直しだ。
本当はクリスマス前の一週間にやっておきたかったが、食中毒で寝込んで果たせなかった。

教授の指摘を受けて、史料を読み直して行くと、色々なことがわかる。ラテン語の読みという間違いはないが、ニュアンスの取り方として、自分が浅かったことがわかる。また文脈を考えると、こうも読める、という教授の読みに、やはり納得させられてしまったりする。尤も、この読みの変更によって、私が立てたドラスティックな結論の衝撃度がちょっと減ってしまったのはちょいと残念だが。

また教授に、この作家のこの作品に関しては、このテキストとこのテキストとを洗っておけ、と言われて洗ってみると、校訂本の読み自体が互いに違っていたりする。その読みの違いは、よく読んでみれば、大抵の場合は私の議論の骨子には響かない。でも、やはりそういうのがあれば、一応大丈夫か確かめて見ねばならず、色々と考えさせられる。そうなると、写本および校訂の問題を考えねばならない点で、聖書学同様、古典学は奥が深い。将来的にはそういう問題もやりたいけれど、今はそういう問題に踏み込んだら博論が仕上がらないので、ほどほどにしようとは思うが。

写本伝承の問題がある古典作品と違って、碑文はそういう問題がない。勿論、欠損による判読不能という別の由々しき事態はつき物だし、年代や建立者を特定できない場合に、時代史料としての価値が低くなることは大いにある。でも、歴史学者が碑文史料を大切にする理由の一つが、何となく実感を込めてわかる気がする。古典作品は豊富な情報を含んでいるが、それが本当に「史料」として価値を持ち始めるには、読み手の側が一工夫も二工夫もする必要があるのだ。




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LOEB叢書を入手 (12月11日)
くもり

今日、アマゾンで注文していたLOEB叢書七冊が届いた。

Remains of Old Latin: Lucilius, Laws of the XII Tables (Loeb Classical Library, No 329)The Attic Nights of Aulus Gellius (Loeb Classical Library, No. 212)


「初期ラテン作家の残存断片集」全四冊と、ゲッリウスの「アッティカの夜」全三冊だ。

そこで、早速開いて眺めだす。
今、風邪を引いていて、喉が痛いのと体がだるいのとで、一切論文作業が滞っている。
そこにこれが飛び込んできたものだから、ちょっと嬉しくなって、ぱらぱらと眺めている。

歴史家としての目で眺めていると、かなりローマ宗教に関しても面白い情報が散在している。
ただ、特に前者は断片なので、その価値付けをどうするか、という問題がある。 このような断片には、所詮正しく引用されているかも不明な断片であるとして全く史料的価値を認めない立場の学者と、断片であるのは承前で、しかしその文脈をよく検討すれば、史料的価値はある程度認められる、という立場の学者がいる。ロンドン大の古代史セミナーに出席している限り、自分は後者の立場の人たちの話を聞くことが多かった。だから、自分はこれらの著作の史料価値を高めに評価する立場にいるのだと思うが。

後者も、ゲッリウスという、二世紀当時の古断片コレクターの作品であるから、引用断片の宝庫ではある。勿論、当時は現代と異なったルールで動いていたのであるから、本文批評の原則はおろか、引用に全く間違いがないかだって怪しい。(引用については、後世の写字生の責任もあるから、全てを著者に被せる訳にはゆかないが。)

まあ、そんな問題をはらむ著作群ではあるが、古代の一面を知るには価値ある資料だと、私や私の指導教官は思っている。時間があったら、中身をぽつぽつ嗜んで、どこに何が書かれているか位の見取り図がさっと頭に浮かぶ位の程度には通じるようになりたいと、密かに思っている。尤もこの夢が実現するのは何年先になるかわからないが。



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指導教官との面談 (12月7日)
くもり

木曜日に、指導教授と短時間の面談を持つことが出来た。


ラテン語を英語に訳すときに、どの単語を選ぶべきか、
外国人の自分はどうしても、ニュアンスの点で間違いを犯してしまう。
でも、そこを指摘して頂けてよかった。
学生時代にもうちょっと英文学に親しんで、そういう語感を養成しておけばよかったと
こういうことがある度に思うが、こればかりは付け焼刃できないので、
当面は、諦めて、直されたところをこの次に間違わないようにするしかない。


私がやった間違いは、大カトーの文中の incultior を uncourted と訳してゆき、

「これだと、彼氏彼女がいない、という意味になっちゃうよ」

と笑われてしまったのだ。 この文脈では本当は uncultivated が適切な訳語らしい。
まあ、謹厳実直なカトーが、法廷演説で敵対している相手を罵る際に、

「この彼女なしめ!」

と罵っていても、それはそれで、ギャップがあって、面白いと思ってしまうが、
そういう遊び心は、とりあえず博論なので、努めて発揮を控えるべし。


あとは、書誌の書き方を指導して頂いた。
私が注に、初めてハーバード式を採用していったら、指導教授は、
自分は学位論文だからこれでいいと思うが、副指導教官は反対するだろう、
でも、彼の言うことは無視しろ、 (@o@) とのことだった。

私の指導教官と副指導教官は、学問的に対立していると言うのは前から聞いていた。
私が、指導教官は誰それで、副指導教官は誰それ、と名前を挙げると、
みんな、口を揃えて、よくその二人がセットになったねぇ、と言われるからだ。

彼らは二歳違いだ。
ゼミの後も仲良く肩を並べてワイングラスを傾けながら、いつまでも何か喋っている。
それは、どうも永遠の議論を繰り返しているのかもしれない・・・。


最後に、イギリス的な事態が発生してびっくりした。
何と、十二月に手術を受ける予定だった彼なのだが、
執刀医が手首を骨折したので、執刀できず、手術が二ヶ月延びる、というのだ。

今の私にとっては、ありがたいが、その分、二月三月に面倒を見て頂けない
ということなので、それもまた緊張だ。 でも、先のことは考えずに、今は頑張ろう。

週末は風邪を引きかけているが、どうか悪化しませんように。



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